ムーミンのママは、こう言っている。
たまには変化も必要ですわ。
わたしたちは、おたがいに、あたり前のことをあたり前と思いすぎるのじゃない?
そうなんだ。
あたり前のことは、状況が変化して、はじめて「あたり前のことだった」と気付くんだ。
ここ1か月くらいで、俺は「あたり前」をいくつか失った。
新型コロナウイルスの影響により、在宅勤務が始まった。
あたり前に出勤して、社内の同僚と直接会話する時間を失った。
社員が一斉にアクセスする仮想デスクトップは、サーバがひっ迫し、動作が重く、普段通りの仕事なんかできやしない。
拠点が複数にまたがるWeb会議で、議論なんかできやしない。
こちらも新型コロナウイルスの影響で、娘たちの学校が休校になった。
あたり前に朝8時に家を元気に出発していっていた娘たちは、今はずっと家にいる。
勉強はそこそこにしてはいるが、テレビの録画リストも見終わり、iPadで遊ぶことにも飽き、在宅勤務中の俺にちょっかいを出してくる三女が、ここにいる。
そして、次女は3月の初め頃から、原因不明の高熱にうなされた。
発熱、頭痛、嘔吐。
日に日に悪化する症状。
今週の月曜日、入院した。
腰から注射をして、髄液を取り、診断。
「髄膜炎」との診断結果だった。
入院して以降、症状は良くなっていない。
その後、「小脳炎」との診断が出た。
泣いた。
基本的には、奥さんが次女の付き添いで病院。
俺が自宅で長女と三女と一緒に過ごしている。
奥さんと次女が家にいること。
そんな「あたり前なこと」も、俺の前からなくなってしまった。
先週、発熱した俺は、その週末に行われた「新横おいやんマラソン2020」への出場を断念した。
以降、毎朝の習慣だったヨガもしなくなった。
在宅勤務により終業後に有り余った時間があるはずなのに、走る気が起きなくなった。
それまで、あたり前だった、ヨガとラン。
俺の心の中から、どっかに消えてしまった。
それら以外にも、俺の前から無くなった、
「あたり前のこと」
「あたり前」は、失って初めて、その大きさに気付くものなんだ。
俺の周りがどんどん変化していっている。
俺は、その変化に全く適応できていない。
俺の時間は、2月の初めから止まったままだ。
いや、もしかしたらもっともっとずっと前から、俺の時間は止まってしまっているのかもしれない。
あまりにも俺の前から多くの「あたり前」が無くなってしまって、「俺のあたり前」が分からなくなってしまった。
「俺自身」は、どこに行ってしまったんだろう。
そして、どこに行けばいいんだろう。
チャールズ・キングズリー氏をご存じだろうか。
1800年代を生きたイギリスのキリスト教牧師であり、小説家だ。
ja.wikipedia.org
そんな、チャールズ・キングズリー氏は、こんな言葉を残している。
私が見てきた人生の最高の成功者たちは、みな常に朗らかで希望に満ちた人々であり、仕事は笑顔で行い、人生に起こるさまざまの変化や機会を、楽しかろうと辛かろうと、男らしく堂々と迎える人々であった。
「成功者」になりたい訳ではない。
でも、
「人生に起こる様々な変化を、、、辛かろうと、、、男らしく堂々と迎える」
って、今、俺ができていないことだな、って思った。
そんな簡単なことではない。
だって、辛いことを直視して、迎えるのって、辛いもん。
でも、そんな辛い変化も、直視して、堂々と迎えよう。
がんばろう。
がんばるんだぞ、俺。
ここが、俺の人生の踏ん張りどころだ。
そして、俺自身が変化しなければいけないな。
変化し続けることで、生き延びられるんだ。
進化論をていした、かの有名なチャールズ・ダーウィンは、そう言っている。
最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である。
少しずつ、止まっていた時間を進めるために。
変化を堂々と迎えて、変化できる者になるために。
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