3人娘の親父が走る。いつだって全力中年。

3人娘の親父がランニングを中心に、日々の出来事をそこはかとなく綴ります。

木を見て森を見ず。

「そろそろ仕事行ってくるね。」

そう、奥さんに行って、リビングから階段を上って、書斎に向かう。


平日、朝6時50分のルーティンだ。



15時頃になると、次女と三女が帰宅してきて、階下が何やら騒がしくなってくる。

たまに友達を連れてきて、書斎の隣の部屋が騒がしくなることもある。


俺の打合せのマイクに、

「俺は俺の責務をまっとうする!」

とか、雑音が入ってくることもある。



17時過ぎに仕事を終えて、書斎からコーヒーカップを持って、リビングに降りてくる。

「ただいま。」




ここ数週間は、コロナの感染者数が増えたこともあり、基本は在宅勤務。

出張でもないと、昼間は自宅から一歩も外に出ない。



そんな自分が、外界の情報を知るのは、ニュースだったり、人様のブログだったりする。



ニュースを見ると、

最近は決まり文句になってきている、

「今日の感染者数は、過去最高の。。。」

やら、

年末にも関わらず閑散としたアメ横が映し出されていて、店主の方が、悲痛なコメントをされていたり、

医療関係者の方の辛そうなコメントを、心が痛くなりながら聞いたり。



一方、ブログを読むと、

「仲間と一緒に走ってきて、すっごく気持ちよかった!」

とか、

「レースに出て、良いタイムで走れました!」

とか、

「旅行に行ってきました!」

とか、

「あそこの店で食べてきました!」

とか。



「そうかそうか。みんな楽しそうだなぁ。」

なんて思う。



そして、

「あれ?」

って、思う。




「何が真実なんだろう。」と。




「木を見て森を見ず」

という、ことわざがある。


断片的な情報だけ見て、判断してしまうことをやめた方がいいよ、

もっと、本質をとらえようよ、

という戒めのために使われることが多い。



ニュースやブログ、それぞれは、ある側面を切り取った、いわば「木」でしかない。



でも、最近のそれらの情報は、非常に「木」でしかなくて、

アドホックに生えている「木」でしかなくて、

「森」が見えない。



自分には、現状の全容が掴めていない。



何が「森」なんだろう。






最近、出張があって、みなとみらいに行った。
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電車は普通に混雑している。

街には、人が溢れている。

ランチ時には、並んでいる列ができるほど混雑している。


「普段通りだね。」




ニュースで聞いていたこととは、また違うリアルが、ここにはある。



何がOKで、何がNGなのか。

それは、個人では判断できないよなぁと思った。



何が「森」なんだろうか。





ブログを読ませて頂いている方は、多くいらっしゃる。

その日のエントリーだけを読んだだけでは、なかなか「森」は見えてこない。


「木」一本一本が多数重なり合って、その人自身である「森」が見えてくる。



一見華やかなエントリーを重ねているけれど、実は、心に大きな隙間があるように見える方がいる。

どこか、寂しげなんだ。



いつも充実した自分自身を、嘘偽りなく、心の声そのものを書いている方もいる。

最高に充実しているんだろうなぁと思う。



1回のエントリーでは気付かないが、毎回読んでいると、感謝の気持ちがいつも表現されているブログもある。

心が優しい方なんだろうなぁと、ホワっとする。



支離滅裂だなぁと思って、、、毎回読んでいても、やっぱり支離滅裂だったりする。

たぶん、その場で思ったことをただひたすらに夢中に取り組む人なんだろうなぁと思う。



たんたんと、ただ、たんたんと、走ったことだけを書き綴る方もいる。

心が強く、芯が強い方なんだろうと尊敬する。




つい最近、自分の書いた「木」に対して、キッツいコメントをくださった方がいた。

そっこうでコメントを削除した。

本当にやめて欲しい。




「木」しか見ないで、「森」を見ない。

「飾られた木」を信じてしまって、「森」を見失っている。



自分は、ちゃんとしっかり「森」を見ているのだろうか。



その場にある「木」にとらわれ過ぎてしまうこともあるけれど、しっかり「森」を見極められるように。

そうなりたいと。


在宅勤務が終わって降りてきたリビングに飾られていたクリスマスツリーを見て、そう感じた。




少しずつ、前へ。
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