サッカーワールドカップの度に、目にするニュースがある。
「日本人サポーターの試合後のスタジアムでのゴミ拾い」
だ。
例えば、イギリスBBCの記事。
www.bbc.com
この記事の中で、大阪大学の社会学の教授であるScott Northさんは、
「サッカーの試合後のゴミ拾いは、子どもの頃に、教室や廊下を掃除するなどの学校生活の中で教えられる基本的な行動の延長です」
と話していたと書かれている。
なるほど。
お掃除当番の延長線上に、スタジアムでのゴミ拾いがあるのか。
確かに、俺の小学校でも、
お掃除当番
給食当番
日直
など、日々順番でこなす役割があった。
お掃除当番をこなすことで、教室や廊下は、日々、なるべく綺麗にしておいた方が良いことを知り。
給食当番をこなすことで、しっかり列で順番にもらった方が、スムーズに進むことを知り。
日直をこなすことで、話をしたい人が前に立ったら、雑談はやめた方が良いことを知り。
と、相手の立場や、その役割をこなす人の立場になって、物事を考えることが自然と根付いていったのだろう。
調べてみたところ、
お掃除当番、給食当番のような仕組みは、
アメリカやヨーロッパ各国には、ないらしく。
掃除、給食の配膳は、スタッフが「仕事」として運用されているらしい。
日本人サポーターがワールドカップの舞台でゴミを拾う行為は、
子どもの頃のお掃除当番の経験があるから、
という考え方も非常に共感できるが、
それ以外にも、
これだけエキサイティングな試合を見せてもらったことに対する、なんかよく分からないいろいろな人やモノに対する「感謝」、
その感謝に対して、何か行動しないと、なんか気が済まないという、なんだろうな、、、
「八百万の神」への感謝、みたいな文化だったりも、
このような行為を自発的に行ってしまう要因なのかも、
と思った。
ワールドカップの舞台は、
特に、海外の方が多くいる中で、日本人としてのアイデンティティを強く意識するような環境だと思うので、
「日本人として、何かをしたい」
という気持ちが強まったのだろうとも思う。
ただ、このゴミ拾いについて、
国際政治学者の舛添要一氏は、
「身分制社会などでは、分業が徹底しており、観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう」
「文化や社会構成の違いから来る価値観の相違にも注意したい。日本文明だけが世界ではない」
という、否定じみた意見があったり、
大王製紙前会長で実業家の井川意高氏は、
「日本人の劣化が口惜しいんです。ゴミ拾い褒められて喜ぶ奴隷根性に大和民族が成り果てたことに憤ってるのです」
という、完全否定の意見があったり。
www.sponichi.co.jp
こんな感じの意見をする方の考え方は、自分には理解が遠く及ばないのだが、
一度権威を持ってしまって、天狗になって、「自分は特別」とか思えている人なのかなぁ、とか、、、
いずれにしても、全く理解できない。
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歳を取ってくると、
「自分の本質はどこにあるのだろうか?」
とか、
「日本人ってどんな人種なんだろう」
とか、
「そもそも人間って何?」
とか、自分のルーツに迫りたくなること、あるじゃないですか。
この、日本代表サポーターのゴミ拾いについて、海外から賞賛されたことは、
このような疑問に答えを出してくれる一つの事象のように感じられて、
なんだか異様に興奮しきて、
唾を飛ばすくらいの勢いで、奥さんに話をしてみたら、
「そんな感じのドキュメンタリーの映画があったような、、、」
と。
調べてみたところ、
小学校の生活に密着した、日本とカナダにルーツをもつ山崎エマ監督の
「小学校〜それは小さな社会〜」
というタイトルのドキュメンタリー映画があって、
そこから生まれた短編版の
『Instruments of a Beating Heart』
が短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされたらしい。
これが、海外では大絶賛らしく。
2025年7月3日現在、「ニューヨーク・タイムズ」運営の動画配信サイト「Op- Docs」にて配信中だ。
youtu.be
日本の小学校に通っていた人からしたら、なんてことはない、
「あぁ、確かにこんな感じだったなぁ」
くらいなものでもあるのだが、これが、海外ではものすごい反響を呼んでいるらしい。
なるほど。
うちらが当たり前だと思っていて、行っていたり考えていたりすることは、
海外の方からしたら、特殊に映ることがあり、
そう言った自分たちとは異質の文化を持つ方々と交わることで、
より自分自身のアイデンティティが明確になるのだな。
そして、
「おでかけですか~!レレレのレ~~!」
という決め台詞とともに、公共の道路をホウキでめっちゃ掃きながら駆け抜ける
レレレのおじさん は、
最近の都市部では、なかなか見かけないものの、
日本における初等教育が生んだ、
家の前の道路を毎日のように掃除してくれるおじさんやおばさんを、
滑稽に風刺しているのだなと、
いやに納得してしまい、
「自分の本質はどこにあるのだろうか?」
という、人生の中でも最高級の難題に対して、何かしらの答えが出せそうな気がして、
久々に美味しいビールを飲める日になったなと、
自己満足の成長を感じられた一日になった。