以前、姪っ子が幼稚園生くらいのとき。
姪っ子たちは、
「おちんちん!」
「うんち!」
「おなら、ぶーっ!」
「おしり!」
とか、ソファを飛び回りながら、何度も繰り返して発言し、それだけで1日中笑い続けていた。
俺はというと、その言葉自体には、何の面白さもないのだが、
姪っ子たちの可愛さに、自然と笑顔になっていた。
そんな情景が浮かび、
「なぜ、子どもの頃は『ちんちん』という言葉だけで面白いと感じるのか」
という、
普段は考えることもないようなことを考えてみようと思った。
というのも、先日のスーパー内部生たちとの飲み会で、
「この話題は盛り上がるだろう」と、なかば自信満々で話し始めたのに、
全くと言っていいほど盛り上がらず、
さっさと次の話題に突入していったためだ。
俺には、なぜここまで盛り上がらなかったのか、さっぱり皆目見当つかなかった。
「人は、何を面白いと感じるのか」
そこには、時代や人種や文化的背景などが違ったとしても、共通の何かが存在するのであれば、
そんな面白い話はないな、と。
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一見どーでもいい疑問に、どのようにアプローチしていけば、「面白さ」の本質にせまれるのか。
俺みたいな普通の人が考えるくらいなので、
面白さを追求してきた過去の偉人の方々の中には、
「面白さ」について、何かしらの答えを出した人がいるのではないか?
ということで、先人の言葉から、「面白さとは何か?」の答えに迫ってみたいと思う。
時代や人種、文化的背景が違いそうな先人たちとして、
古代の先人
近代の先人
日本人の先人
の3種類の先人の方々の言葉を探し始めた、土曜日の早朝5時半。
「面白さ」についての先人の言葉から考察すると、
「面白さ」は、
・何かのズレ
・何かしらの共感
の大きく2つの要素から、構成されるのではないか。
という、自分なりの結論にたどり着いた、土曜の昼前11時半。
要素①:ズレ(違和感・ギャップ)
先人たちの言葉
「滑稽は、人の道を外れし時に見ゆるもの。」
十返舎一九:1765年〜1831年|日本|滑稽本作家・戯作者
「笑いとは、他人の過失や醜さでありながら、それが苦しみを伴わないときに生まれる。」
アリストテレス:前384年 – 前322年|ギリシャ|哲学者
「笑いとは、生命の流れに機械的な硬直が侵入したときに生まれる。」
アンリ・ベルクソン:1859年 – 1941年|フランス|哲学者
自分なりの考察
確かに、「何かしらのズレ」が面白さを生み出す、というのは納得感がある。
冒頭の「ちんちん」については、
言ってはいけないような言葉なのに、何度も言っている、
という「常識とのズレ」を楽しんでいる気がする。
予想とのギャップ、
立場や視点の違いが生むズレ、
時代や地域によるあるあるの違和感、
緊張からの緩和という空気のズレ、
など、何かしらの「ズレ」が「面白さ」を生んでいる。
そして、アリストテレスが言うように、
そのようなズレで、誰も損しないようような場合は、
爆発的な面白さを発揮する気がした。
そして、あまりにも有名なこれら2つの動画は、
「ズレ」から生まれた面白さなのだろうと、半端なくシックリ来てしまったところだった。
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要素②:共感・共鳴
先人たちの言葉
「にくきもの、うれしきもの、をかしきもの——人のけはひ(気配)を見て心が動く。」
清少納言:966年頃 – 1025年頃|日本|宮廷女房・随筆家
「人間の滑稽(こっけい)というものは、結局、自分の心に引き当てて、他人の心の動きがわかるときに面白く感じるものである。」
夏目漱石:1867年~1916年|日本|小説家
「私は人間を笑っているのではない。人間の中にいる自分を笑っているのだ。」
マーク・トウェイン:1835年 – 1910年|アメリカ|作家・ユーモリスト
自分なりの考察
そうなんだよ。
「あー、確かにそうだな。」
という、これまで気づきもしなかったことを聞いた時、
そこに自分の経験も重なり、
非常なまでの面白さを感じることがある。
これは、もう、「あるあるネタ」に代表される面白さなのだろう。
俺は、このCMを見たとき、うちの学校だけじゃなかったのだ!と感銘を受けた。
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そして、モノマネは、
「めちゃ似てる!」という共感からの、
コロッケのモノマネにあるような「それはない」というズレ、
という「共感とズレのハーモニー」による、より高度な面白さなのだろうと。
youtu.be
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と、ここまでかなり自分の中で納得したのだが、
先日の「スーパー内部生」たちとの飲み会で、出してみた俺の話題は、
・町内会のお祭りの実行委員として、お祭りを盛り上げる意気込み
・ルービックキューブを40秒台で揃えられるようになり、自慢したいと思っていたこと
・3人娘が同時受験でお金がドリドリ減ったこと
などだったわけだが、
俺の話を聞いていた6人は、
小学校1年生から高校3年生まで、ずっと同じ学校で過ごした同級生であり、
社会人になってからは俺とは全く違う生活を過ごしてきた皆さんだった、
ということもあり、
俺の話題は、
「長年の付き合いから、俺がやりそうなこと」で、ズレはなく。
「大人になってからの生活があまりも違うため、誰も共感すらできなかった」
ということだったのだろう。
謎はすべて解けた。
さて、このようなどうしようもなく役に立つ気がしないブログ記事が、
「面白さ」
を提供できているのだろうか。
いや。
違う。
俺が面白いと感じられることを書けばいいし、話すれば良いのだろう。
スーパー内部生との飲み会で、何も盛り上がらなかった自分を
客観的に見ていた俺は、十分に面白いと思ったしな。
このブログも、俺が面白いと感じることが最も重要なことなんだろう。
そんな「強がり」が、
今日の自分をちょっと面白くしてくれた、そんな土曜日の夕方だった。