3人娘の親父が走る。いつだって全力中年。

3人娘の親父がランニングを中心に、日々の出来事をそこはかとなく綴ります。

日本語の一人称表現に感じる奥ゆかしさ。

ブログを書いていると、

自分自身のことを表現するときの「一人称」に、何を使うのか?

を考えることがある。


このブログでは、主に

「俺」

を使っているのだが。



たまに、なんか「俺」とは表現しづらくて、

「自分」

を使うことがあるような気がする。



この手の、

「どの一人称表現を使うのか?」

の判断基準はどこにあるのだろうか。



俺もさすがに47年間と日本人を長年やっているので、

とっさの場面でも、

それなりに適した一人称表現を使えていると思うのだが、

日本語を学び始めた海外の方は、困惑することもあるんだろうなと思う。



考えられる基準は、

・自分の性別

・自分の客観的な年齢:子ども、若者、高齢者

・自分の今いる地域(方言など)

・自分(話者)と聞き手の関係

・TPO:ビジネスなのかカジュアルなのか

・自分が聞き手にどのような印象を与えたいのか
 (創作されたキャラの印象を決める要素になったりする)

あたりなのかと思うが、様々な環境や文脈などを考慮して決めているっぽい。



中年の男性で子どもがいる自分がよく使う一人称表現としては、

「俺」:家族や仲の良い友達や後輩に話すとき

「パパ」:家族

「わたし」:ビジネス、フォーマル、初めましてのとき

「僕」:仲は良い気がするが、なんとなく他に使える表現がないとき

「自分」:「俺」では強すぎるし、「私」ほどフォーマルではないし、「僕」と表現するのが、少々恥ずかしい気がするとき

と言った感じな気がする。



英語であれば、どの場面でも「I」の1個で、すべて片付けられるのだろう。

フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語などの西欧の言語では、一人称表現はほぼほぼ1個のようだ。


韓国語、中国語、タイ語などのアジア圏の言語では、いくらか一人称が複数存在する言語がある。



それでも、日本語ほど多様な一人称表現を持っている言語は稀なようだ。



ということで、長い導入だったが、

日本語に見られる一人称表現に、

どんなものがあり、

いつから使い始められたのか、

今はどんな感じで使われることがあるのか、

を調査してみて、

なぜ、日本語には多様な表現があるのかを、

独断と偏見で考察してみたいと思う。



~~~~~



まず最初にご紹介したいのが、こちらの日経の記事だ。
www.nikkei.com



この記事の中に、

飛田良文さんという日本の国語学者で国立国語研究所名誉所員の方が作成した、

日本語の一人称の歴史

の図が紹介されている。


ただ、もっとたくさん一人称表現はあると思ったので、

自分なりに調べてみて、補足説明を追加して、再校正してみた。



文字が小さくて申し訳ないが、、、

追加したものについては、それなりに丁寧に調査したので、

おおよそそれっぽい感じで仕上がっていると、、、そう思いたい。。。



西暦700年代に書かれた、

「古事記」「日本書紀」「万葉集」あたりが、文字として残存する最古の文献なのだが、

その頃に使われていた一人称は、

「あ」「わ」「われ」「まろ」

だということだが、

それぞれ使われ始めた初期の頃は、明確な差はなく、

どのような場面でも使用されていたようだ。



この頃は、701年に制定されたとされる「大宝律令」により、

天皇による集権国家が作られた時代で、

公地公民、租庸調などの税制制度の基盤ができ上ったとされている。

おそらく、この頃は、「天皇+貴族か、それ以外の人か」くらいの違いしかなく、

「階級」のようなものが明確に意識されることはなかったのかなぁ、、、とか思った。



平安時代後期から鎌倉時代になるころには、

藤原氏による摂関政治が確立し、

特定の家柄が摂政・関白を独占することで、官職に就ける家柄や昇進ルートが固定化され、

「家」による差が明確に意識し始められ、

白河上皇による院政の開始とともに、武士が台頭し始め、

「立場」の違いが鎌倉時代に入ってから、より明確に意識されるようになったと、、、

なんとなく、そんな気がする。


そのような時代背景もあり、

武士の中でだけ使われる一人称、

「おれ」「それがし」「拙者」「てまえ」

など、より複雑化した「立場の違い」を一人称で表現するという文化が根付いたのではないかと、、、

この頃から、貴族の女性が主に使う、

「わらわ」

という表現も使われるようになり、さらに複雑な文脈解釈が要求されるようになったのではないかと、、、


そんな気がしてきたところだ。


このような複雑化した立場の違いを認識する必要性が高まることで、

日本人は、周囲や環境や文脈を感じることに長けてきたのだと。



そして、現代に入っても、

中世から明治時代頃まで脈々と続いてきた、

「一人称表現で、立場の違いを表現する」

という言語表現は、日本語に依然と残っている。


そのような時代背景があり、今の日本語の一人称表現の複雑さを作っているのではないだろうか。




~~~~~



さて。

ここで、少し考えたいのが、

「日本語と英語における一人称の違いが何に依存しているのか?」

という疑問なのだが。



「I」の1個しか自分を表現する言葉がないということは、

周りの環境や文脈が変わったとしても、

「自分は自分である」

という、自分が世界の中心である英語の文化があり。



周りの環境や文脈を認識したうえで、

その中における自分の立場を自分なりに認識して、

「周囲や文脈における自分を表現する」

という、周囲から自分を定義づけする日本語の文化があり。



だからこそ、日本語を使いこなせる日本人は、

周囲と強調する力を発揮することができ、

調和を重んじ、

自然の中に繊細な美しさを感じることができ、

だからこそ、今の時代に世界から賞賛される、

日本人ならではの独特の社会性や美意識が育まれたと言えるだろう。





最近、

こんなにも奥ゆかしく、素敵な日本語と日本の習慣について、

日本の総理大臣が、

「七面倒くさい」

と表現したようなのだが。


これほどまでに残念なことはないなと、本当にガッカリして、

「こいつの代わりに俺が総理大臣になるしかないな」

というファンタジーを、

横浜に住む小市民である俺が、

興奮しながら強く感じてしまったりして。



日本語のような複雑な言語を扱えるからこそ、

私たち日本人は、

雅、粋、わび、さび、独特の間、

などに気付き、意味を持たせることができる奥ゆかしさがあるのだよ、

と、今の日本の総理大臣に説法したいと思ったりもした。

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