「ごめんなさい」
無機質な文字が繋がった、無機質なこの「ごめんなさい」を、あなたは、どんな「ごめんなさい」と感じただろうか。
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子どもの頃、弟と喧嘩した時。
大抵の場合、兄である俺が、両親に怒られた。
でも、たまには、弟が怒られることもあった。
「謝りなさい!」
そう両親が弟に言って、弟は、
「ごめんなさい」
と言う。
自分は、奥さんと仲が良いと思ってはいるが、たまには夫婦喧嘩もする。
夫婦喧嘩はタチが悪い。
誰も、「どっちが悪いから謝りなさい」なんて、言ってくれないし、お互いにムキになってしまうことが多い。
でも、そんな中、奥さんが俺の部屋にノックをして入ってきて、弱々しい声で、
「ごめんなさい」
と言う。
この2つの「ごめんなさい」。
最初の弟のは、なんか嘘くさい。
後半の奥さんのは、本当の気持ちっぽい。
同じ文字の羅列でも、その言葉が出てくるまでの文脈(コンテキスト)で、感じ方が変化する。
それは、俺の書き方や表現のし方で、そう感じたのかもしれないが、
実は、読んでいる人の置かれている状況や、今のコンテキストで、大きく変わるんじゃないか、って思った。
強烈に好きな人がいたとして。
当たり前のことだけど、
その人を好きになったのは、それまでに自分が経験してきたことに大きく依存していて。
それまでに、もしも今の自分とは違う経験をしてきていたら、好きになっていなかったかもしれない。
何かの経験をへて、自身の置かれているコンテキストに変化が起こり、
それまで強烈に好きだった人が、どうでも良くなることもあるかもしれない。
何の悩みも持っていないときに観る「ショーシャンクの空に」と、
長く長く、暗いトンネルの中を進んでいるようなときに観る「ショーシャンクの空に」は、
まったく同じものを観ていても、自分のコンテキストで、感じ方が違うんだ。
最近「ショーシャンクの空に」を観た時。
ラストシーンでは、既にメガネに涙がたまっていて、綺麗な海がしっかり見れなかった。
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今の気持ちを表現したい。
そう思ったときに、その表現の方法は、無限にある。
その表現の方法を間違えると、本当に気持ちを伝えたい人に、伝わらないことがある。
最終的な感じ方は、その伝えたい人の置かれているコンテキストに、依存しているから。
伝えたい人のコンテキストを想像して、そのコンテキストに適した表現方法で伝えた方が良いのだろう。
そう。
ブログもそうだ。
ブログを読んでいる方は、沢山いて、そんな皆さんのコンテキストに合った最適な表現方法なんてない。
より有機的で生々しいことを表現しようとすればするほど、そんなコンテキストたちを想像して、感じ方が変わってくることが怖くて、エッジの効いていない内容になってしまう。
でも実は、「面白いブログ」は、そんな有機的で生々しいことを表現できているブログだったりする。
そこには、共感がある一方、嫌悪感も生まれる。
だから、自分が表現するときは、一生懸命に相手のコンテキストを想像したいと思うし、
何かを表現している人を見る時は、一生懸命にその表現している人のコンテキストを想像したい。
または、一切、今の自分のコンテキストに依存せず、完全に客観的に見てみたい。
そんなこと考えると、
やっぱり、あの人の書くブログは面白い。
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