3人娘の親父が走る。いつだって全力中年。

3人娘の親父がランニングを中心に、日々の出来事をそこはかとなく綴ります。

あだ名と呼ばれ方とアイデンティティと。

俺の苗字は、結構普通だ。

普通というのは、「日本全国苗字ランキング」みたいのがあったとき、トップ20くらいには入っているくらい、良くある苗字だ。

小中高と、同じ苗字の同級生がもう1人いた。

大学生になっても、隣の出席番号の男が同じ苗字だった。

社会人になると、同じ部署に俺と同じ苗字が3人いて、メールが間違えて送られてくることも、良くあった。


俺は、小中高一貫の国立の学校に所属していた。

小中高一貫は、良い面もあるが、辛い一面もある。


「一度貼られたレッテルが、二度と剥がれない」


という辛い一面があるのだ。


俺は、うんちを漏らしたことがあるものの、幸いその件で悪いレッテルを貼られることはなく、辛い経験はあまりせずに高校卒業まで過ごせた。


でもまぁ、一度貼られたレッテルが、なかなか剥がれないということは、小中高一貫校に限らず、どんな集団にも存在することなのかもしれない。


一方、良いレッテルを貼ってもらえると、幸せな小中高生活を過ごせることになる。

「脚が速い」

「頭が良い」

「カッコいい/可愛い」

「親が素敵」

などのレッテルだ。

体(てい)を現すレッテルだが、呼ばれ方からいつの間にか何となくのレッテルが貼られることもあると思う。




先日、娘たちの所属する小学校の授業参観に参加した時、子どもたちの事を、下の名前で呼んでいる先生がいた。

子どもたちからも人気が高く、授業も上手な先生だった。

一方、子どもの苗字で呼ぶ先生もいた。

偏見もあったかも知れないが、苗字で子どもたちを呼ぶ先生の授業は、つまらない授業が多い。

先生が授業を楽しんでいないように見えるからだ。



うちの長女の名前は「桜子(さくらこ)」と言う。

「桜子」とつけて、名前負けしてしまうことに少々不安があったものの、長女に対する想いを名前に馳せて、そう名付けた。

だが、外で「さくらこ」と呼ぶ恥ずかしさもあり、あだ名を考えることにした。


あだ名は「らこちゃん」だ。

最初は違和感もあったが、今では長女の友達の多くは、そう呼んでくれる。

小学校の先生も、そう呼んでくれている方がいらっしゃるようだ。



この、普段の生活では、あまり気にすることがない「呼ばれ方」だが、非常に大事な気がするのだ。

俺が小学校1、2、3年のときは、担任の先生は、俺の事を苗字に君付けで呼んでいた。

俺に限らず、男子生徒は、苗字に君付け、女子生徒は、苗字にさん付けだった。


それが、4年生になって、新しく担任になった先生は、俺の事を下の名前で呼んでくれた。

「宏樹(こうき)」


俺は、変わった。

3年生まで、「おとなしくやさしい」という印象しかなかったと思われる俺は、「活発で良く手を挙げ、運動もそこそこできる子」になった。

下の名前で呼ばれることをきっかけに、「自分を認めてもらえた」気がして、本当の自分を出せるようになってきたような気がする。


その担任の先生、正木先生には、感謝の気持ちしかない。


この経験から、親父の会のおやじとして、小学校や地域の子供たちと接する際は、なるべく下の名前、またはみんなが呼んでいる名前で呼んでいる。



下の名前で呼ぶことは、子どもたちにとっては非常に大事なことなんではないかと思う。

家の中では、家族に下の名前で呼ばれているだろう。

小学校という社会に出る以前、そして、家に帰ってからは、子どもたちは下の名前で呼ばれているから。

「名は体を現す」

その名で呼ばれることで、自我を感じ、自分を表現できるのではないだろうか。



小学校の頃、友達にあだ名を付けることが多かった。

今思うと、少々残酷なあだ名も多い。

福島君→ イミナシ(耳がデカく、「耳なし芳一」からもじった」

まつなみ君→ チョロ(ちょろちょろしているから)

河野君→ もじゃ(下の毛が生えるのが早かったから)

石山君→ トロイさん(何をするにもトロいから)

奥野君→ ほそ道(奥の細道から)

入江君→ ミニエ(背が小さいから)

川上君→ ブヨ(太ってるから)

山口君→ 北京(海外に住んでいたことがあるから)

長沼君→ ブラモン(ブラジルにいるサルっぽいから)

赤石君→ シシ(なんとなく)

松本君→ つま(まっちゃんが他にいたから)

林君→ もや(もやしのように細かったから)

岡部君→ ベイビー(おかべいびーみたいな)

中でも、最も残酷だと思うあだ名がある。


「うんち」だ。


垣内君のあだ名が、「かきうんち」ってことから「うんち」になった。

当時、垣内君のことを「うんち」と呼ぶことに、全く悪気はなかった。

垣内君も嫌がっている素振りはなかった(と思う)。

今でも会ったら「うんち」だ。


そんな「うんち」は、中学校で俺と違うクラスになり、生徒会の委員長に立候補し、その立候補の演説で自分の事を「わたし」と表現していた。

「僕」じゃないんだ。

当時の俺は、そう思い、「うんち」が少し遠い存在に思えた。


呼ばれ方。

ただの呼ばれ方。

でも、その呼ばれ方から、周りの人がイメージする人格が存在すると思う。

また、呼ばれるその人自身も、その呼ばれ方から、自分を少なからずイメージし表現していると思う。


で、俺の話。

小学校の低学年の頃は、苗字を文字って「○○ちゃん」と呼ばれていた。

が、小学校の高学年以降は、下の名前「宏樹(こうき)」を文字って、

「こうくん」

「こうちゃん」

「こうきち」

「こうき」

などと呼ばれるようになった。

下の名前で呼ばれるようになり、すごく楽に自分を表現できるようになった。

自分の親が、「こうなってもらいたい」と思って、俺に付けてくれた名前。

その名前で呼ばれることで、なりたい自分になれる気がした。



親父の会では、「ウッディー」と呼ばれている。

ただ単に、お祭りの仮装で、ディズニーキャラクターのウッディーのコスプレをしただけなのだが。

でも、そう呼ばれると、ちょっとポップで楽しい盛り上げ役を演じたくなる。



また、このブログをやるにあたり、ハンドルネームを考えた

横浜の全力中年。

「全力さん」

「横浜さん」

「中年さん」

「全中さん」

なんて呼ばれる。


「全力さん」と呼ばれることには、だいぶ慣れてきた。

そして、そう呼ばれると、なんでも全力でやらなければいけない気がする。


「横浜さん」と呼ばれると、横浜市の一員として、変なことはできないという気がする。


「中年さん」と呼ばれると、何となくお酒を飲みたい気分になってしまう。


「全中さん」と呼ばれると、強そうな気がして、完全に名前負けしている気がする。



呼ばれ方。

俺を呼んでくれる方法。

「横浜の全力中年」という名前は、正直まだ完全には使いこなせていない。

が、名前負けしないよう、常に何事にも全力取り組みたいと思う。


また、素敵な名前「宏樹(こうき)」を付けてくれた両親には、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

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