先日、こんな話を聞いた。
レンガ職人の話だ。
ある旅人が街を歩いていると、レンガ職人に出会った。
「何をしているんですか?」と聞くと、
「あ、これ?見ればわかるだろ。レンガを積んでいるんだよ。」
「親方に言われて、毎日毎日、こき使われてるんだよ。」
と答えた。
しばらく歩くと、違うレンガ職人に出会った。
同じようにレンガを積み上げている。
「私は、レンガを積んで『壁』を作っているんだ。」
と。
またしばらく行くと、3人目のレンガ職人はこう言った。
「私はね、このレンガで、『大聖堂』を作っているんです。」
と。
さらに行くと、4人目のレンガ職人もレンガを積んでいて、
「俺は、『この街のコミュニティ』を作るためにレンガを積んでいるんだよ。」
と言った。
この話、もともとは、イソップ寓話にあるようで、それを少し脚色しているらしい。
「仕事に対する、取り組みの姿勢」
を語る場面で、引用される小噺だ。
より広義で、より上位概念の目的を持つことで、
今の取り組みに、強い目的意識を持って取り組めるようになる。
(レンガ以外の)他の手段を使ってでも、目的を達成する意欲が湧く。
まぁ、分かる。
そうだろうね。
って思う。
一方、自分は、こうも思った。
ひたすらに強い人は、
「レンガ積み自体に、最高の楽しみを感じられる人」
なんじゃないかって。
今、自分が積んでいるレンガが、一体、何になるのか、何の役に立つのかなんかはどうでもよくて。
ただひたすらに、「レンガを積む」という、その行為に最高の幸せを感じられる人。
レンガを効率的に積む方法を発見したり、
レンガの焼き加減でレンガの脆さが違うことに気付けたり、
レンガの間を埋めるセメントの塗り方を極められるのは、
レンガ積みがこの上なく好きな人なんだと思う。
より上位レイヤの目的を意識することは大事だ。
でも、今の取り組み自体に楽しさを感じられないならば、やっぱり、その取り組みは、どこかで破綻してしまう気がするんだ。
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「走ること」が、生活の一部から消えてから、半年が経とうとしている。
今年の2月以降、みんなと一緒に走れなくなり、レースにも出たくなくなり、自分には、
「走る理由」
がなくなってしまった。
自分にとって、「走る理由」は、
「みんなと一緒に楽しく走るため」
だったんだろうな。
みんなと一緒に楽しく走れなくなったから、自分には、もうレンガを積む気力が湧かない。
レンガを積まなければ、レンガの壁なんかできないし、ましてや大聖堂や街のコミュニティなんか、できやしないんだ。
もし、今の自分の状態で、当選してしまったら、かすみがうらマラソンに申し訳ない。
バドミントンをやる理由は、沢山作っておこう。
今、これだけバドミントンを楽しめている気持ちを忘れずに。
レンガの話を聞いて、また変なこと思い出してしまったな。
もう、いやだよ。
さてと。
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