この芸術作品、ご存じだろうか。
1917年に、マルセル・デュシャンというアーティストが発表した「泉」という作品だ。
この作品、美術界では、超絶有名な作品で、すっごく評価されていると言う。
なぜなんだ?
これ、ただの男子用便器に、「R.MUTT」という偽名でサインをしたというだけのもので。
当時、すでにアーティストとして一定の地位を築いていたデュシャンは、この作品を、美術展に展示しようとして、結局、お蔵入りになってしまったのだが、この一連の出来事は後に、
「便器事件」
と呼ばれている。
そして、2004年12月、デュシャンの「泉」は、イギリスの美術界の専門家500人が選んだ「アートの世界に最も影響を与えた20世紀の作品」の第1位に選ばれた。
なぜ、ただの男子用便器が美術界の人に評価されたのだろうか。
このデュシャンの「泉」について、分かりやすく書かれている記事は、こちら。
k-daikoku.net
デュシャンの作品は、それまで、目でみて「美しいもの」こそを評価することが当たり前だったアートの世界に疑問を投げかけて、
作品を作るまでのその過程や、背景を考えることに主眼を置くことこそ、アートの本質なんではないか、と問いかけた。
最終的なアウトプット自体よりも、そのアウトプットが出てくる過程にこそ、アートの本質がある。
という考えを投じたことが評価されていると言う。
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「ブログを書く」という作業は、もしかしたらアート作品を作る作業と一緒なのかもしれない。
ブログを書こうと思ったときには、まず「書きたいこと(ネタ)」を思いつく。
そのネタをどうやって表現しようか、調べたり、出来事を思い出したりして考える。
そして、最後に書く。
書いてみたら、思っていた方向と違うところに行きつくこともある。
「書きたいこと」は、「種」のようなもので。
調べたり考えたり思い出したりする「思考」は、種から伸びて地下に張り巡らされた「根っこ」のようなもので。
「ブログのエントリー」は、種があり、張り巡らされた根っこがあったうえでの、地面の上に顔を出した「幹や葉っぱ」に過ぎなくて。
「種」を植えた場所の「土壌」はその人自身の、「これまでの経験」なんかで培われているのかもしれない。
「今の周囲にいる人の影響」は、「養分」として与えられたものかもしれない。
ずいぶん前に張り巡らした根っこから、急に芽が出てくることもある。
根っこが不十分だと、地面の上に顔を出した「幹や葉っぱ」は、うまく育たない。
「種」がイマイチだと、やはり「幹や葉っぱ」は、面白くない。
土壌に問題がある場合は、どんな種をまいても、どうしようもない。
もしかしたら、ちゃんと養分を与えられていなければ、自分の想像と違うものが芽を出してしまうかもしれない。
いや。
自分の場合、ただただ適当にブログ書いている日も多いし、ていうか、適当に書いている日がほとんど、という話は置いておこう。
そして、
気合を入れて書こうと思って、めちゃくちゃ調べたり考えたりしたのに、いざアップしてみると、全然面白くないなんてことも良くあることだ。
でもね。
読者の立場として。
あるブログを読んだときに、
「この『種』はどんなことなのかな。」
「どんな『土壌』にこの種を巻いたのかな。」
「その地中には、いったいどんな『根っこ』が張り巡らされているのかな。」
なんて想像をさせてくれるようなブログは、本当に面白いと感じる。
その内容自体が、ポジティブな内容であろうが、ネガティブな内容であろうが、その過程を考えさせられるエントリーならば、心が躍る。
その内容自体が、「男子用便器」くらいのものであったとしても。
便器を作品としようと思った、その過程やその人自身を感じさせてくれるのであれば。
それはもう、猛烈に心が躍るんだ。
さてと。
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