去年の3月に、次女の楓子が
「小脳炎」
という、自分にとっては未知の病にかかったとき。
つい1週間前まで元気に動き回っていた楓子が、
立てなくなり、
腕を動かせなくなり、
言葉を発することができなくなり、
寝返りもうてなくなり、
まぶたを開けることもできなくなり、
どんどんどんどん進行していく病状に、
最愛の娘の「死」を覚悟した瞬間があった。
とてつもなく、途方もなく、真っ暗な闇に突き落とされた感覚。
辛くて、辛くて、気が狂いそうになる感覚。
自分に「死」が差し迫ったときも、似たような感覚になるのかもしれない。
楓子が重病に侵されていて「死」すら覚悟した時に、調べたり考えたことを思い出しながら、今の気持ちと重ねて書いてみる。
~~~~~
「死ぬこと」
については、哲学、宗教において、永遠の議題であって、そこに明確な答えは存在していない。
それらしい答えは用意してあるが、その答えを考えた人たちは、
「死んだことがない人たち」
だから。
でも、「死んだことがない人たち」が残した言葉に、すごく心に響く言葉たちがあったりする。
永六輔さんの言葉。
人間は二度死にます
一度目は
その肉体が生命を終えたとき
二度目は
その方のことを覚えている人が
一人もいなくなったとき
父方の祖父は、自分が高校3年生のときに肝硬変で亡くなった。
帰省すると、居間に置いてあった黒板にチョークで何やら書いてくれて、色々な小噺をしてくれた。
朝市に連れて行ってくれたり、軽トラックの荷台に乗せてもらったり。
昼間っから日本酒を飲んでいて、白いTシャツと白いステテコを履いていたおじいちゃん。
今でもその当時の思い出が、記憶の中に鮮明に残っている。
おじいちゃんは、当時のまんま、自分の中で生きている。
歴史の教科書に出てくるような方々は、肉体が生きていた時間以上に、何倍も世の中の人の心の中で生き続けている。
ジェラール・シャンドリさん
という、どこの誰だか良く分からない方の言葉。
一生を終えてのちに残るのは
われわれが集めたものではなくて
われわれが与えたものである
どこのどなたなのかは存じないが、
この言葉、すごく共感できる。
死してなお、周囲の人々に大きな影響を与えている人は、
生きているときに、与えていたものが大きかった人たちなんだろう。
そんな人は、死してなお、周りの人々の心の中で、ずっと生き続けているんだろう。
~~~~~
突然、話を変えてしまうが。
これまで3年間、ブログを続けてきていると、
ブログの更新を止めてしまった人は、少なからずいらっしゃる。
ブログ界における「死」にあたるような気がする。
でも、ブログ自体を削除していない限りは、いつかまた、復活してくれるのかもしれない。
この界隈の方々とお酒を飲むと、伝説のようなブログを書いていた方のお話を聞くことがある。
トガーさん
とか
たかしさん
とか。
「本当に面白かったですよ。」
「また読みたいです。」
みたいな感想を、良く聞く。
お二方とも、すでにブログ自体を削除されていて、残念ながら、もう読むことができない。
これは、ブログ的には「死」なんだろう。
でも、みんなの心の中で生き続けている。
まじですげーと思う。
たぶん、お二方は、集めてばかりではなくて、与えていたんじゃないかな。
ご自身に、そのつもりがなかったとしても。
自分はと言えば、ブログ、本気でやめようと思ったことがあったけど、
いまだに、こんな意味不明なエントリーを毎日のように垂れ流していて。
自分のようなクソどうしようもない人間が生き続けて、周囲に与え続けていた人がブログをやめてしまう。
ブログ自体は残っているけれど、最近、全然更新していない人。
冬眠というか休止状態のブログ。
そんなブログも多いと思うけれど。
そんなブログの中で、ずーっと自分の心の中に鮮やかに生き続けているブログがあって。
俺は、かんくろーさんの書くブログが、また読みたいんだよ。
ね。
富士登山競争。
開催されると信じて、またブログ書いて欲しいな。
さてと。
にほんブログ村