3人娘の親父が走る。いつだって全力中年。

3人娘の親父がランニングを中心に、日々の出来事をそこはかとなく綴ります。

音楽とブログと。

楓子が何やら歌っている。

「なに、その曲?」

 「あいみょんだよ」


また歌っている。

これは、LiSAの『炎』だな。


そして、また歌う。

「その曲は?」

 「髭男」


歌詞が合っているのかどうかは分からないが、よくもまぁ、これだけスラスラと覚えられるもんだ。



確かに、国語の教科書に出てきた話、文章、一言一句覚えるのは困難だったが、

歌謡曲となると、そのメロディとともに、歌詞がすんなり覚えられた。


この歳になっても、いまだに新曲でもサビだけは歌える、みたいな曲も、まぁまぁある気がする。

覚えている認識がなかったとしても、歌ってみたら「歌えちゃった」みたいな。



こう考えると、「歌」の持っている力は、ものすごく大きい気がする。






一方、文章を覚えるという作業。


昔やった。


「つれづれなるままに ひぐらし、、、」

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり、、、」

「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて、、、」


これらの文章は、いまだに覚えている。



これらは、ただの文章ではないのかもしれない。


「何らかのリズムを感じる文章」

な気がした。




「心に残る言葉や文章には、リズムがあるんじゃないだろうか」

そう思った。




人間は、歌詞がついている音楽を聴いているとき、脳の右半球と左半球とを駆使して、メロディの処理と言葉の処理を行っているという。

聴覚野と呼ばれている部位と言語野と呼ばれている部位、その両方が高度な処理を行っているようだ。


文章の読み上げを聴いている際は、言語野での処理がメイン。

メロディを聴いている際は、聴覚者での処理がメイン。



複数の刺激を同時に獲得した方が、脳に記憶されやすい。

そんな現象に、何か秘密がありそうな気がする。




“Stay hungry, stay foolish”

2005年のスタンフォード大学の卒業式の式辞で、スティーブ・ジョブズが最後に放った言葉。


この言葉は、ジョブズが壇上で語っている映像とともに、強烈に心に焼き付いている。




「ごめんね。うちにはお金がないからグローブ買ってあげられないよ。」

1994年に台所で、うちの母親が悲しそうな感じで自分に向けた言葉。


この言葉は、エプロンを着て何かを包丁で切っている母親の後ろ姿の画とともに、美味しそうなご飯の匂いとともに、強烈に焼き付いている。




「ねぇ、ご褒美のチューは?」

だいぶ昔の彼女が、ハイキング中に口を「うー」って感じで尖がらせながら自分に向けた言葉。


この言葉も、緑生い茂る山の風景とともに、新鮮な空気と、ドキドキしている心情とともに、強烈に、そして鮮明に焼き付いている。





言葉に合わせて、他の強烈な刺激が加わり、心に鮮明に刻まれている。





ブログ。


ブログにも心に残るブログというものがある。


そこには、「リズム」がある。


もしかしたら、「メロディ」なのかもしれない。



読み始めると、

「あ、この人のリズムだ。」

と感じる瞬間がある。



どなたが書いた文章なのか分からなかったとしても、

「この人が書いた」

と感じることができる「リズム」。



一言一句は覚えていなくとも、そのリズムは心に刻まれていて、その節々の言葉が、鮮明に心に残っている。




最近、ある漫画を読み返していて。

「言葉の持つ力」

を再認識している。



自分もいつか、音楽を奏でるがごとく。

「あ、このリズムだ」と思っていただけるような。


そんなブログを書けるようになりたい。




さてと。
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