3人娘の親父が走る。いつだって全力中年。

3人娘の親父がランニングを中心に、日々の出来事をそこはかとなく綴ります。

娘の涙の理由。

長女は、その日泣いていた。


よこはま子ども国際平和スピーチコンテストの小学校代表に選ばれた長女は、区の代表を選ぶスピーチコンテストに参加した。
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そう。
スピーチコンテストで区の代表に、なれなかったからだ。



その日、俺は、長女のスピーチを聴くために、午後は仕事を休んだ。

「自分の子供が小学校の代表として大会に出場する」なんていう場面は、人生長いとは言えど、そうそうあることではない。

実際、俺が子どもの頃に、学校の代表に選ばれたことなどなかった。


各小学校からの代表の6年生は、全部で21人だった。

21名の中から、区の代表1名を選ぶ大会だ。



スピーチコンテストが行われる会場に到着すると、そこは、異様な緊張感に包まれていた。

各小学校の関係者は1階席に。
保護者は2階席に。

スピーチの前に長女と話をしたかったが、それは叶わず。

コンテスト開始まで、リハーサルが行われていた。

何とか長女に気付いてもらおうと、大きな咳ばらいをしたり、大きめの深呼吸をしたりするものの、長女は気付かない。

長女は、周りを見渡すことができないくらい緊張していたようだった。



コンテストが始まる。

次々とスピーチをする、各小学校代表の6年生たち。

流石に小学校の代表なので、みんな非常に上手だ。

いじめの話、戦争の話、障がい者の話、ボランティアの話、、、

ほぼすべての発表者は、原稿を見ずにスピーチをしていた。


そして、長女の出番。

その表情からは、緊張が見て取れた。


「『平和』。平和になるということはどういうことなのだろう。みなさんは平和について考えたことがありますか。」


はきはきと、そして堂々としたスピーチ。

心に訴えかけてくる内容。

親ばかなだけかもしれないが、他のどの発表者よりも上手だと思った。


カメラで長女を撮影する俺は、涙をこらえていた。

「すごいよ。俺が6年生だった頃は、こんなにできなかったと思うよ。」

100名以上が観覧する会場の中、堂々とスピーチをしている娘を見て、代表に決まってから毎晩のようにスピーチの練習をしていた長女を見ていた俺は、涙を堪えながらスピーチを聴いていた。


約3分のスピーチを終えた娘。


最高のパフォーマンスを出せたと思った。


他にも上手にスピーチしてる発表者はいたが、長女が一番良かったと思った。



しかし、結果は、区の代表には選ばれず。



閉会式が終わり、長女が会場から出てくる間、俺は長女が出てきたらどんな顔をして、どんな言葉をかければ良いか、ずっと考えていた。

でも、今にも涙が出そうで、顔がこわばり、笑顔が作れなかった。

ダメだ。

このまま長女と会ったら、その場で泣いてしまう。

そう思い、俺は長女に会わずにその場から離れた。




俺が日々趣味で取り組んでいるランニングは、タイムで評価される。

ランニングのパフォーマンスを評価する場合、「タイム」は絶対的かつ客観的な評価軸だ。


しかし、今回のスピーチ。

表現力、文章力、語彙力、、、など、それっぽい評価軸はあるのだろうが、審査員の主観によるところが大きい。

「表現力が、100点満点中で75点でした。」

なんて言われても、それが良いのか悪いのか人によって捉え方も違うだろう。

主観的な評価軸だ。



学生の頃に受けていたテストもある意味、客観的な点数の付け方で評価されていたのだと思う。

が、社会人になってから受ける評価は、かなりの場面で主観的な評価になる。

絶対的な価値基準があるような評価をされることは少なくなり、評価者が誰なのかに依存する主観的な評価を受けることが多くなる。


一流の大学出身の学生が、社会人になってうまく評価されていないような現象があるのは、「評価者が誰なのか」を意識する必要があるという変化に対応できていないからなのかもしれない。

逆に、「なんでこんな人が?」と思うような人が評価されている現象があるのは、「評価者が誰なのか」を意識してその評価者に合わせたパフォーマンスを発揮できたからなのかもしれない。



今回、長女が参加した、スピーチコンテスト。

残念ならが長女は代表には選ばれなかった。

長女から聞いた話によると、審査員の先生からのコメントは、
「内容も、スピーチの仕方も本当に良かったが、時間が3分を超えてしまっていたことが良くなかった。」
とのことだった。

どうやら、主観的な評価は良かったが、タイム内に発表を終了させるという客観的な評価で減点されていたらしい。


長女は、
自分のテクニックで何とかなる部分で減点されたことで、最終的な評価が下がったことに対して、悔しくて涙を流していたのだ。

「自分がしっかりやれば、何とかなったはず。」

それが悔しかったのだと。



俺は、その話を聞く前は、涙を流している長女に、

・スピーチの評価は、審査員の主観による部分があるから、何が良くて何が悪いかは分からない

・大人になったら、そんな主観による評価ばっかりだ

・子どものうちは、最終的な結果も大事だが、それ以上にそこまでのプロセスが大事だ

・俺くらいの大人になると、プロセスは評価されず、結果だけが評価される

・パパが審査員だったら、長女が最優秀賞だ

と声を掛けようと思っていた。



しかし、客観的に評価される部分で減点を受けていたとなると話は別だ。

「あの会場にいるほとんどの人が、長女が最優秀賞だと思ってたはずだよ。パパは、絶対に選ばれると思っていたよ。」

「でも、今回は、3分以内っていうルールにやられたね。」

「ルールを守ることは大事だってことが分かったから、それで良いんだよ。それを身をもって体験できて、すごく成長できたから。」

うなずく長女。


長女は、その後も、しばらく一人で涙を流していた。



長女は、本気で取り組んでいたからこそ、ここまで悔しさを感じることができたのだと思う。


「俺は、思い通りにいかなかったときに、悔し涙を流すほど本気で取り組めていることがあるのだろうか?」


そんな疑問を持ちつつ、長女の成長を感じつつ、自分もまだまだ成長しなければと強く感じた。



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